header_nikos
       
 
 
 
 
 
 
 
 
研究会の講義録
 

21 <心 身 症 (肝旺気症) に対する鍼灸治療>

古典鍼灸青鳳会 平成24年6月

 
■ 緒  言
 心身症とは、身体疾患のなかで、その発症や経過に心理的な因子が密接に関連しているもの(ただし、神経症・うつ病などの精神疾患にともなう身体症状は除外する)と定義される。
 私の日々の臨床のなかでも、心身症と名づけるほどでなくとも、心理的な原因がかかわって身体症状が悪化していると思われるものは、まことに多い。こういう時こそ、鍼灸治療の出番と言いたいところだが、素問・宣明五気篇、陰陽応象大論、靈樞・本神、難經・42難などの人間の感情を論じてある箇所を見ても、本来別物である感情と思考が同列に置かれていたり、意識の活動の場である「魂」が「魄」と並んで二つあったりと、実は雑然と論じてあるにすぎないことに気がついた。
 難經は一まず置いておくにしても、素問と靈樞はざっと読んでも古代中国の神秘主義的教義=黄老思想にもとづいて書かれていることは明白である。ここでは、現代ヨーロッパの神秘思想家であるルドルフ・シュタイナー(1861~1925 オーストリア出身)の人間の捉え方を援用して、感情・思考・意志などの人間の意識の問題を考え直しておくのも一考であると思い、今回のテーマの一つにすえた次第である。
 ここでシュタイナーの見方を援用するのは、シュタイナーが現代西洋の神秘家であるというだけでなく、その意識の捉えかたが大局的だからである。したがって、フロイト、ユングといった心理の専門家たちが、意識や魂そのものを詳細に観察・分析するよりも、人間の意識全体が把握しやすいという利点がある。

 また、心身症のなかでも、とりわけ「肝旺気症」として肝の問題を扱うのは、現今では「いらいら」が、もっともわれわれの情緒問題の筆頭となっていると思われるからである。
 「いらいら」= 「いらだち」「あせり」の原因となり、またそこから生み出される感情の最大のものは、「怒り」である。自分の思うようにならない事態、情緒的・社会的圧迫、不安、葛藤などを原因として、私たちは日々、怒りを胸のなかにしまい込んでいる。「腹がたつ」「腸(はらわた)が煮える」「頭にくる」「むかつく」「苛らつく」など、怒りの感情を表現する言葉もまことに多く、怒りを原因とする苛立ちはまた、「悲しみ」とともに、抑うつの大きな原因ともなっている。
 そして、この「怒り」を司っているのが、東洋医学のうえでは肝なので、治療の項では、とくに肝の問題を取り上げたい。
 
Ⅰ. ルドルフ・シュタイナーは人間の「意識」をどう捉えたか
 

 本来、心の中の出来事について語ることはタブーとされているのではないだろうか、という考えが私にはあった。
本論から離れることになるが、「ザ・ウォーカー」という映画があった(2010年)。核戦争で壊滅後30年たった世界の物語で、人々は残り少ない水を奪い合って生きている。水を支配する者が、その土地を支配する者となるのだが、水以上に力のあるものが存在することが分る。それは一冊の本であり、その本を運ぶ男の物語が、この映画のテーマなのである。本とはすなわちキリスト教の聖書のことで、聖書は人間の心について書いてある書物だということで、水以上に争奪の的となるのである。
このように大がかりな話でなくとも、たとえば、読書している人の部屋にうっかり闖入するとばつの悪い感じがするということも卑近な例であるし、巷間よくいわれる「電車の中で化粧している女性を見るといやな感じがする」というのも、化粧にまつわる個人の内面的な行為を、公衆の前でなされる破廉恥感が根本にあるのではないだろうか。
そうした事情から、霊、あるいは魂の話というと、人は生来的に避けたく感ずるものであるが、今回のテーマは「心身症」である以上、以下の話は避けられない。いやな感じを受ける人もいるでしょうがお聞き下さいとお断りして、話をすすめます。

ルドルフ・シュタイナーは以下のように、人間と他の生物・無生物の違いを説明しつつ、人間を構成する要素について解説している。


肉体・・・物質としての肉体 人間が死ぬと、肉体は鉱物と同じ物質に戻る

生命体・・・物質としての肉体の生命を維持するもの、崩壊を防いでいるもの。中国古代医学では「気」にあたると思われる・・・正気、精気、陽気(陰気)、營気、衛気

感覚体・・・外界を認識する、人間の意識が活動する場
好き嫌い、快不快の感覚をつかさどる ⇒ 感情
覚醒・睡眠の区別があり、覚醒時に活動する(睡眠時は、感覚・意識がなくなる)                     

思考体・・・メンタル体
単純な思考 ・・・ 石で箱を壊して、中のリンゴを食べる(ゴリラ)
純粋思考 ・・・ 数学的思考 2+x=5  x=?
1.5 X 24 = ? 暗算で ⇒ 3 X 12 = 36

記憶 ・・・ 思考をもとにした記憶
感情の記憶

意志 ・・・ 成し遂げようとする気持ち

自我・・・自分自身を客観的に見ることのできる者    
自分の中の他者であり、意識に存在する神の部分
「世界でその人のことを『わたし』と呼べるのは、その人一人しかいない」
ユダヤ教の神は、名・顔がない(YHWHの神聖四文字で表す)       ⇒他者が指し示して呼ぶことのできない、見ることのでき        ないもの = 自我


以上を整理すると、下のように簡単に言うこともできる。

鉱物 ・・・体(物質)
植物 ・・・体(物質) + 生命
動物 ・・・体(物質) + 生命 + 感覚(意識)
人間 ・・・体(物質) + 生命 + 感覚(意識) + 自我


シュタイナーは、以上のように人間というものを、ごく大雑把に、しかし分りやすく整理して、我々に提示してくれている。
そして、このように分解してみると、人間の感覚や感情・思考の場である意識が、どんな位置を占めているかよく分ると思う。
これが、素問や靈樞の世界では、これらがどのように整理されているか、見てみることにしたい。

≪参考≫
心身症になりやすい人の性格的な傾向として、自己の感情を意識的に捉えることの苦手な人や、想像力・空想力の欠如といったことがあげられるが、これは、不安や不満などの感情を意識上で認識することが苦手なので、身体で現してしまうからだと考えられている。
過敏性腸症候群・神経性胃炎・不整脈・月経不順・高血圧・緊張性頭痛・関節リウマチ・アトピー性皮膚炎・円形脱毛症

 
 
Ⅱ.鍼灸医学的考察

素問・宣明五氣篇二十三
  人間の意識のありか①
五藏所藏、心藏神、肺藏魄、肝藏魂、脾藏意、腎藏志。


王注 
<神> 精氣之化成也。
<魂> 神氣之輔弼也。
<魄> 精氣之匡佐也。
<意> 記而不忘者也。
<志> 專意而不移者也。


王冰がここでそれぞれ注釈をつけているのは、靈樞・本神の「天之在我者(徳の異体字で、心の上に一ある字)也」以下の文を引いているのである。

靈樞・本神第八 人間の意識のありか②
肝藏血、血舍栗。
脾藏營、營舍意。
心藏脈、脈舍神。
肺藏氣、氣舍■(鬼の上に白)。
腎藏精、精舍志。

難經 四十二難 人間の意識のありか③
肝重四斤四兩、・・・主藏魂。 
心重十二兩、 ・・・主藏神。 
脾重二斤三兩、・・・主藏意。
肺重三斤三兩、・・・主藏魄。  
腎有兩枚、重一斤一兩、主藏志。


以上、素・靈・難のいずれも心-神、肝-魂、肺-魄、脾-意、腎-志と結びつけている。
しかしながら、素・霊の成った後漢あるいは難經の三国時代当時、神や魂などは具体的に何を指 していたのだろうか。
以下に、白川靜「字統」から、それを探ってみたい。

 
 
   神 - 金文1   神 - 金文2
 
申は電光が斜めに屈折して走る形で、神威の現れるところ。説文に「天神なり」とし、 「萬物を引き出すものなり」と、神・引の畳韻をもって訓ずるが、このような音義的解 釈は漢代の語源学に共通のものである。
神は天神で祖霊を含むことはなく、人の霊には鬼という。
神事のみでなく、精神のはたらきや、そのすぐれたものを神爽・神悟のように言い、 人智を越えるものを神秘という。
 
 魂 - 篆文
 
うん云とき鬼とに従う。云は雲の初文で雲気の象。魂は雲気となって浮遊すると考えられて いたのであろう。説文に「陽气なり」とあり、魄には「陰神なり」と相対させてある。
 
 鬼 - 甲骨文1         鬼 - 甲骨文2
  鬼 - 金文
鬼の形で、人鬼をいう。説文に「人の歸するところを鬼と爲す。人に従ひ、鬼頭に象 る。鬼は陰气賊害す。ム(し)に従ふ」とし、ムを陰気を示すものとするが、古い字形は ただ鬼頭の人の形につくる。
字は、畏(い)と同じ系統に属し、畏は鬼が呪杖を持つ形である。鬼頭は異相のうえに大で あるため、魁然として大なるもの、魁偉などみな鬼に従う。遷(せん)は鬼頭の人を遷す意 で、風化した屍を葬る意。鬼とは、もと人屍の風化したものを称する語であろう。
人鬼に対して自然神を神という。合わせて鬼神という。
 
   音と心とに従う。説文に「言を察して意を知るなり」というが、音に従う形であるか ら、「音によって意を知る」とするべきであろう。音は「神の音なひ」をいい、それによって 神意を推測するのであるから、もとは憶度・憶測の意。
 
     志 - 金文        志 - 篆文
初文は 之(し)に従い、士はその楷書化した字形である。説文に「意なり」と訓し、意にはま た「意は志なり」と訓してあり、互訓である。〔詩序〕に「詩は志の之(ゆ)く所なり。心に在 るを志と爲し、言に發するを詩と爲す」とあり、それで志を心の之往(しおう)する意とするよ うになった。
 
      思 - 篆文
正字は笊(し)に従い、笊声。笊は頭脳の象形。その思惟するところをいう。
〔論語・爲政〕に「子曰、詩三百、一言以拔(さだむ)之、曰、思無邪」とあり、「思無邪」は 〔詩・魯頌〕から引いた辞であるが、魯頌当時の用法は助字で「思(ここ)に邪無し」と読む。
 
        心 - 金文1       心 - 金文2
心臓の形に象る。説文に「人の心なり。土の藏、身の中に在り。象形。博士説に似て火 の藏となす」とある。心は生命力の根源と考えられていたが、卜文にはまだ心字は見 えず、文の字形中に現れるのみである。
 
          霊 - 甲骨文       霊 - 金文
旧字は靈に作り、俥(れい)と巫(ふ)とに従う。俥は雨乞い、呪板の器である丹(さい)を三つ列べ て、降雨を祈る。巫はその巫女。字はその雨乞いの儀礼をいを 雨請いのみでなく、神霊の降下を求める時にも同じ呪板が行なわれるので、のちにその神霊を言 うようになり、およそ神霊にかかわることをみな霊という。
 
 以上のように、「神」とは精神の働きの中でも上位にある、優れたもので、天に属す。これは、シ ュタイナーの言う「自我」に当てることができそうだが、拙速に過ぎるだろうか。
 「魂」と「魄」とは、人間の意識ということができそうである。人間を抜けでて浮遊するイメージがあ るのだが、シュタイナーのいう生命体と感覚(意識)体のイメージが混合しているように思われる。
 「意」は「音によって憶測する」の意味であるから、現今の意識の意味はない。脾は憶測の働きを もつのである。
 「志」は心の之(ゆ)くさきを言う。心の行く先・向かう先であるから、「こころざし」の意味をもつ。こ れは腎の働きとされる。

 さて以上のように五藏と、人間の意識、精神、生命体との関係を見たが、中国の古代という地 域性・時代性を見ても、どうも判然とした分類はされていない。むしろ生命を担うものと、人間 の意識とを混合して論じている感じがするのである。
 また、上の五つにはなかったが、現代の思考をあらわす文字は、「思」ということになる。
 
◆ 音の問題

 ここで、これらの文字が、当時どんな音で発音されていたかを見ることにも意味があるだろう。
 字統にも、たびたび「互訓」ということが言われ、音が同じであるからという理由で、意味も同じで あると括られることが中国の文字ではよくあることだからである。
   (漢字の音は「新漢和大字典」藤堂明保による)

 
 やはり、音の近いもの同士を組み合わせて、臓の働きとしてあるのである。ここでも中国の「互訓」の伝統は生きている。

 こうなっては、神・魂・魄・意・志それぞれの由来を問うても意味がないかもしれないのだが、靈樞・本神篇に、それぞれの由来・成り立ちが論じてあるので、見てみることにしよう。
 なお、この本神篇とは、鍼術を施すにあたっては、術者の神にもとづいて行なうべきである旨を論じてある篇であり、その意味でも人間の意識・精神のみを純粋に論じてある篇でないことを断っておきたい。
 
靈樞・本神第八

天之在我者■(徳の異体字で、心の上に一ある字)也、地之在我者氣也。
(徳の異体字で、心の上に一ある字)流、氣(ハク 薄の右のつくりが甫+寸の字  せまる)而生者也。故生之來謂之精、兩精相(ハク 薄の右のつくりが甫+寸の字  せまる)謂之神。隨神往來者謂之(魂の異体字で云の下に鬼)、並精而 出入者謂之■(鬼の上に白)、所以任物者謂之心、心有所憶謂 之意、意之所存謂之志、因志而存變謂之思、因思而遠慕謂之 慮、因慮而處物謂之智、故智者之養生也。

※物を背負っているものが心である。

 まず、「我」にあるもののうち、天に由来するものが「徳」であり、地に由来するものが「気」である という。
 天から徳が流れ、地から気が迫って生まれたものが我なのである。
 ゆえに、生の由来は、天の精(徳)と地の精(気)であり、この両精があい迫ったときに「神」(優れた精神のはたらき)が生まれる。
 神にしたがって往来するものが「魂」、(体を)出入りするものが「魄」である。
 物(この場合、生物の体)を支えているのが「心」。
 心にはおしはかる作用があり、これを「意」という。
 意の存するところを「志」という。
 志によって様々に変わるものが「思」(思考)。
 思により、はかりごとをすることが「慮」。
 慮(はかりごと)をもちいて物事を処することが「智」。
 したがって、(健康について図る)智は、養生である、という論である。

 一つなりにあるものには、物を生む力がなく、これが異質なもの二つに分かれ、それが互い に作用することによってはじめて、物を生む力が生ずるというのが、老荘思想に共通する考えであ り、ここでもそれは再現されている。しかし、天から来るものが徳であり、地から来るものが気だと いうのは、他に例があるのだろうか。
 また、天の精と地の精が相迫ったときに「神」が生ずるという。神とは、もともと雷光を指すものであ ったとみれば、この記述は正鵠を得ている。そして、人間の精神のもっとも優れた働きを、雷光に 例えたところにも、深い叡智を感ずる。
 つぎに「魂」が神にしたがって往来するものと述べられているのだが、魂を人間の意識・精神活 動と解すれば、これも納得が行く。神とは、あくまでも意識や精神活動よりも、高位にあるものなの である。
 そして「魄」だが、精に並んで出入りするもの、と述べられている。素直に肉体を出入りすると解 釈してよいと思われるが、死後人間から離脱してゆくものの意だろう。しかし、シュタイナーの言うよ うに、眠りの際にも出入りするという意味は、ここにはないように思われるのだが。
 また、この論にはこれまでに述べられた神・魂・魄・意・志にはない、「心」が物を負って支えるも のと論じられている。当初心は、直接には心臓であるが、胸に生ずる精神作用を指すようになって 行ったのであろう。

一が異質なもの二つに分かれ、その相互作用で万物を生ずるという考えは、老子・道化第四十 二、淮南子・天文訓、精神訓などに見られる。

老子・道化第四十二
道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽、冲
氣以爲和。

※冲は沖の俗字、水の湧き出すこと。

淮南子・天文訓 
道始於一、一而不生。故分而爲陰陽、陰陽和合而萬物生。故曰一生二、二生三、三 生萬物。

淮南子・精神訓 
夫精神者所受於天也、而形體者所稟於地也。故曰一生二、二生三、三生萬物。萬物 背陰而抱陽、冲氣以爲和。

以下に、靈樞・本神篇を補う目的で、ここに現れる字の原義を掲げておく。
 
       徳 - 甲骨文       徳 - 金文1
彳(てき)と省と心とに従う。篆文の字形は悳(とく)に従い、悳の声。説文に「升(のぼ)るなり」とあるが、字の本義ではない。徳の初形は省ときわめて近く、省から展開している字と見られる。
省は目の上に呪飾をつけて、省道(せいどう)すなわち除道(じょどう)を行なうことを意味する字で、徳とはその省道によって示された呪的な威力をいう。目は呪力のあるものとされ、それに呪飾を加えて厭勝(えんしょう =まじない)とすることが古くから行なわれており、わが国でも〔神武記〕に久米の命(みこと)が「黥(さ)ける利目(とめ)」ををしていたことを記している。
このような威力が呪飾による一時的なものでなく、その人に固有の内在的なものであることが自覚されるに及んで、それは徳となる。
 

声符は莫。説文に「習ふなり」とするが、金文には慕を「謀る」の意に用いる。思慕の義 に用いるのは、戦国期以後である。


声符は癡(りょ)。説文に「謀思するなり」とあり、謀には「難を慮るを謀という」とあ り、互訓。


声符は青(呟)。説文に米を択ぶ意とし、五穀の美なるものをいう。「食(し)は甞を厭わ ず、膾(かい)は細を厭わず(よい穀物でも構わないし、細い筋肉でも構わない)」〔論語・郷 党〕
五穀の精美なるものより、すべて純粋・清明なるものをいい、精神には精爽という。「こ こを以って精爽あり。神明に至る」〔左伝・昭七年〕
精神の語の初出は荘子。

 
声符は壬(じん)。説文に「保つなり」とする。
「重きに任(た)ふること能わず」〔国語・魯語〕 ・・・重量に任える
「輕き任は并せ、重き任は分つ」 〔礼記・王制〕 ・・・荷物のこと
負担に任える意により、責任・任務といい、他にまかせる意より、委任・任命という。
頼まれずとも買って出るのを任侠、頼まれたら引かぬのを任達というが、任とは、本 来自らに課するものである。

 
●肝と怒り

素問・陰陽應象大論 第五

人有五藏、化五氣以生喜怒悲憂恐。
東方生風、・・・在藏爲肝、在志爲怒、怒傷肝。
南方生熱、・・・在藏爲心、在志爲喜、喜傷心。
中央生濕、・・・在藏爲脾、在志爲思、思傷脾。
西方生燥、・・・在藏爲肺、在志爲憂、憂傷肺。
北方生寒、・・・在藏爲腎、在志爲恐、恐傷腎。


 それぞれ、「志に在りては、」として「情志」すなわち関わりのある感情をかかげていると思われる が、ここではっきり感情といえるのは、怒・喜・恐である。思は、前に見たように思考を示し、憂は抑 うつ的な状態をいう。当時の中国の人々にとって、感情・思考・意志などの明確な区分はなかった ということなのかも知れない。
 
  
Ⅲ. 臨   床
 

 肝の旺気を来たしている患者は、身体が実証の場合は肝実、それ以外の場合の多くは、肝虚を呈していることが多い。
肝の実証の場合、肝それ自身を瀉すことは稀で、下に述べるように、肺経を使っていわゆる相剋調整する方が、理に適っているようである。
肝を補うばあいは、肝経から取穴することになる。

身体が実証で、脈も大、洪脈などを呈している場合には、まず照海を補うと、脈を落着かせることができる。奇經治療で、照海-列厥をとっても可。

肝経以外からは、肺経を補って相剋調整する方法がある。
肝に剋される脾経を取る方法もあるが、肝を剋する肺を取ったほうが、成果が上がるようである。
○孔最、列厥
○地機

《相剋調整について》

 臨床上、いわゆる「相剋調整」の理論を完成したのは福島弘道先生だった。私自身は、福島先生の相剋調整理論を知らないまま、独自の経験からこの治療法に至ったのだが、非常に実用的な経穴の運用法なので、あらためて記しておきたい。
 福島先生は、鍼灸古典には、この理論の根拠となる条はないとしているが、強いて揚げれば、素問・五蔵生成篇の条文に付した王冰の注を、それとすることができるだろう。
 相克関係は、一方が他方の力を削ぐという関係ももちろんだが、他者からエネルギーを得て互いに力を増す、という意味合いも強い。小竹武夫は「漢書」五行志(ちくま学藝文庫)で、相克関係にある相手を「妃(つれあい、くみあわせ)」と訳して、この協同関係を表わしている。

■素問 五蔵生成篇 第十

肝之合筋也。其榮爪也。其主肺也。

  王注・・・木畏於金、金與爲官。故主、畏於肺也。
木は金を畏れ、金とともにやくめ(=官)を爲している。故に肺が主だとは、肺を畏れるということである。


○ 漢書・五行志七上
昭公の九年「夏四月、陳に火災があった」(と左氏伝にある)。董仲舒の思うよう、陳の夏徴舒が主君を殺したので、楚の厳王はこれにかこつけて陳のために賊を討ちたいと称し、陳は城門を開いてこれを待った。しかるに楚軍は到着すると、陳を滅ぼしてしまった。陳の臣民はこれを恨むことはなはだしく、陰気の極が陽を生じて、そのため火災を招いたのである、と。
劉向(りょうきょう)の思うよう、・・・八年十月壬午、楚の軍が陳を滅ぼしたが、「春秋」は蛮夷が中国 (中原の中つ国)を滅ぼすことを容認しないため、やはり陳に火災があったと書いたのである。「左氏伝」の経文に「陳に火災があった」とあり、その伝文にいう「鄭の裨竈(ひそう)が『五年たてば陳はふたたび封ぜられるであろうが、封ぜられて五十二年でついに滅ぶだろう』と言った。子産がそのわけを問うと、答えて言った。『陳は水の性に属します。火は水の妃(つれあい)であり、また楚を相(たす)けるものであります。いま火星があらわれて陳に火災があったのは、楚を逐いはらって陳を建てる兆であります。妃(くみあわせ)は五の数をもって成るものゆえ、五年と申したのです。歳星が五たび鶉火(じゅんか =星宿の一つ)にめぐり来るに及んで、しかるのち陳はついに滅び、楚が勝ってこれを領有する、これは天の道であります』」と。〔小竹武夫訳・ちくま文庫〕


漢書(かんじょ) ・・・後漢の章帝(AD75~88)のとき、班固によって編纂された、前漢のことを記した歴史書。体裁は、「本紀」十二巻、「表」八巻、「志」十巻、「列伝」七十巻、全百巻。
五行志は、第七上・第七中之上・第七中之下・第七下之上・第七下之下、以上五部を占め、志中でも大きな比重を占めている。また、この芸文志第十に、黄帝内經十八巻の名がはじめて現れる。

 



≪参考図書≫
ルドルフ・シュタイナー「神秘学概論」ちくま学藝文庫
ルドルフ・シュタイナー「神智学」イザラ書房
小竹武夫訳 「漢書」 ちくま学藝文庫
福島弘道 「経絡治療学原論」上・下 「経絡治療要網」 東洋はり医学会
藤堂明保 「新漢和大字典」 講談社
白川静 「字統」 平凡社